深夜アニメは【大衆娯楽】か?それとも【芸術作品】か?
おはようございます。
なんの脈絡もない話なのですが、先日「天気の子 Weathering With You」を見ていた時、作中で夏なのに雪が降りました。
その時帆高くんが「天気が陽菜さんと連動してる……」と言ったのですが、それを見た私は「親切すぎです。」と思いました。
天気が陽菜さんの感情や体調と連動していることを帆高くんは口に出して聞こえるように視聴者に説明してあげたわけですね。
映像作品の含意やダブルミーニングを考察したい奇特な批評家である私は「この帆高のせりふはいらないよ。言わなくても連動してることは描写から読み取れるよ。」と言いそうですが、実際はこの帆高くんのせりふは必要なのです。
だって映画は大衆娯楽だから。みんなが楽しめるものでなくては。わかりづらいところはちゃんとわかりやすいように。作者の意図が伝わるように。
作者が頑張って作った映像をず~っとみている人はごくわずかです。ぼ~っとしている人、他の事を考えている人。寝ている人。色々な人がいます。
あらゆる場面に伏線や描写をつめこんでいても、伝わらないことの方が多い。と思う。
安楽岡花火「もう、『あったか~い』の季節なんだね……」
しかし。説明しすぎない方がいい時もあります。
深夜アニメ『クズの本懐』最終話。主人公の安楽岡花火は自動販売機を見て「もう、『あったか~い』の季節なんだね……」と言いました。
そして次にカメラは捨てられた冷たい飲み物(何の飲み物かは忘れた)の紙パックを映しました。
作中での「紙パックの冷たい飲み物」は安楽岡花火と粟屋麦をつなぐ大切なキーアイテム。
それが捨てられており、花火が「もう、『あったか~い』の季節なんだね……」と言ったということは花火と麦の関係は捨てられてしまったということを暗示しているわけですね。
こういう作者が意図した暗喩を読み取った時。かつ作中で特にわかりやすい説明もない場合。私を代表する深夜アニメ批評家は快楽を感じるわけです。作者の意図を読み取ってやったぜ。と。
こういう点はその作品を特に高く評価する(いい作品だと思う・売り上げが上がる)理由になりえると思う。だから、深夜アニメは大衆娯楽になりきれない。
ぼけぇ~として頭をからっぽにしているすべての人に向けた作品を作るのがベストなのか? そんな作品は絶対に人気が出るのか? 売れるのか? それは誰にもわからないと思う。
(ここまで書いてちょっと思ったが、表向きは頭をからっぽにして見れてしかし、よくよく見ると色々な伏線、ダブルミーニング、暗喩があり、深夜アニメ批評家をも満足させる作品を作ったらいいのではないか? と思ってしまった。つまりいいとこどりだ。)
(また思ったが、視聴者は自分が大好きな作品Aを大人気作品にしたくてダイレクトマーケティングするなら「作品Aは上に書いたような作品です。ふわふわしていて楽しいけれど実は奥深いです。」と言えばいいのではないか?)
『フリップフラッパーズ』の最終回の次回予告はエヴァンゲリオンのぱくりだった
そんないいとこどりをした作品。それが「フリップフラッパーズ」である。
それはさておき、このアニメには楽しみ方が二つあると思う。
ひとつめは、このアニメのキャッチコピー「変身する二人のヒロイン!」に表現されているように、パピカとココナが繰り広げる冒険を純粋に楽しむというものである。毎週のバトル。そして「フリップフラッピング!」の掛け声からの変身。それらに心躍らせるというものだ。
ふたつめは、このアニメのイントロダクションの一節「あなたには、世界はどう見えているんだろう」に表現されているように、製作者が物語の中に隠した元ネタ、含意、ダブルミーニング、などを調査、考察するというものである。
少し辛口採点だろうか? 持論だが、そんなことはない。『フリップフラッパーズ』という深夜アニメがある。
『フリップフラッパーズ』は、"いい作品を作ろうとしてヒット作になった"という稀有な例である。
私のブログから引用してきた文章であるが。私が言いたいことは『フリップフラッパーズ』制作陣は【芸術作品】を作ろうとしていた、ということ。
自分たちのやりたいことだけやった。大衆娯楽になろうとはしなかった。
しかし、できあがったその芸術作品は大衆娯楽足りうる要素も兼ね備えていたと、こういうわけである。
ありがとう、プラスティック・メモリーズ
色々書いたが。私にとってのプラスティック・メモリーズは「大衆娯楽」でも「芸術」作品でもどちらでもない。
私にとってのプラスティック・メモリーズは何物にも形容しがたい、代替しがたい、
そんなものだ。
ありがとう、プラスティック・メモリーズ